お葬式では聞きなれない言葉をよく耳にします。
葬儀用語を五十音順でまとめていますので、ぜひご利用ください。
直会とは、神社において祭祀の最後に執りおこなう行事で、神事に参加した方が一同で神酒を戴き神饌を食することを指します。一般的には、神事が終了した後の宴会と位置付けられていますが、本来の直来は神事を構成する行事のことを指します。
神霊が召し上がったものを人々がいただくことによって、神霊との結びつきが強くなり神霊の力を分け与えてもらって、その加護を期待する意味があります。歴史をみると、本居宣長は斎戒を解くことの意としていますが、古くからの祭式において祭典の前儀や本儀において執りおこなうケースもあり、解斎のみを意味するというのは誤解です。
なお、神社から餅などをいただく際に言う「直らう」も、直来と似た意味の言葉となります。神社本庁が定めている神社祭式においては、どのような祭式・祭祀であっても必ず直会をおこなうとされており、具体的な作法も定めています。
直会が簡略化された形として、御酒をいただくことが一般的な儀礼となっていますが、御酒が神饌の中でも米から作られるものとなり、調理せずにその場で直接いただけるため、象徴的におこなうものとなっているのです。
直会は、葬儀における仏式の精進落としに近い形のものと考えられます。
七回忌とは、故人が亡くなった後満6年目を迎える祥月命日に執りおこなう法要のことです。定められた年に執りおこなうことになる年忌法要としては、一周忌、三回忌に続いて3回目の法要となります。日本においては、年忌法要を3や7に関連する年に執りおこなうのは、仏教で大切にしている数字であるからという説が有力視されています。
具体的には、3という数字には2を超えるという意味があって、2を超えるということは、有と無、勝ちと負けといった両極端に偏った考え方を排除して、仏教で悟りを極める際に大切な考えとなる中庸の生き方をするという意味があるのです。
七回忌となると、それまでの年忌法要と違って遺族や親戚だけの小規模で規模を営まれる形が一般的です。流れとしては、他の法要と同様で僧侶による読経や参列者による焼香を執りおこないます。そして、一同での会食をおこない締めるという流れです。
近年では、住宅事情などによって法事はお寺で営まれるケースが多いですが、七回忌以降は参列者が少ない関係上、自宅で執りおこなう事例も増えています。服装については、それまでは喪服を身に付けますが、七回忌以降は平服での参列が一般的です。
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南無阿弥陀仏とは、名号のひとつであり六字名号のことを指します。阿弥陀仏への帰依を表明するための定型句として、広く一般的にも知られています。
南無とは、ナモーの音写語であって、礼拝やおじぎ、あいさつを意味しているナマスの連声による変化形となります。礼拝から転じて帰依を表明するという意味に用いられており、わたくしは帰依しますと解釈されています。
阿弥陀とは、その二つの仏名であるアミターバとアミターユスに共通している、アミタのみを音写したものとされています。南無阿弥陀仏とは、わたくしは阿弥陀仏に帰依しますという意味があるのです。その名を唱えることによって、仏様への感謝の気持ちを示したり、死後に極楽浄土までたどり着けることを願いを伝えられたりします。
南無阿弥陀仏は、主に葬儀などにおける読経の中で、僧侶とともに参列者も一緒になって唱えるのが一般的です。念仏に込められているものには、故人が阿弥陀如来の恩恵に与かって無事に極楽浄土へ行けるように願います。また、念仏により参列者と阿弥陀如来の結び付きが強くなり、願いが届くと考えられているのです。
南無阿弥陀仏がよく唱えられる浄土宗においては、十念と呼ばれる南無阿弥陀仏と10回繰り返す唱え方を取り入れています。
南無釈迦牟尼仏とは、主に天台宗や曹洞宗で唱えられている、お経の種類のことです。南無は元々はサンスクリット語でnamasと呼び、仏様の御心のまま教えに帰依するという意味があります。また、釈迦牟尼仏はお釈迦さまのことです。
要するに、南無釈迦牟尼仏とは釈迦牟尼仏に帰依するという意味となるのです。この宗派に基づいて作られた仏壇の中心において、必ず釈迦牟尼仏が祀られるのが特徴です。南無釈迦牟尼仏では、信心の気持ちを伝えることによって、故人があの世に向かうまで仏様にお守りいただきたいと願うと同時に、仏様に守っていただけるので心配いらないと故人に伝えられるとされています。
他の宗派においては、仏壇に毎日手を合わせる際に経文を唱えるのが一般的ですが、禅宗では経文を唱える文化はありません。ただし、葬儀や法事などの場では、最初に南無釈迦牟尼仏を唱えます。これは、南無釈迦牟尼仏唱えることによって、お釈迦様に対して自分は帰依する者であり信心の心を伝えるためです。
南無大師遍照金剛とは、真言宗におけるお経の一種です。南無には私は帰依するという意味があり、南無大師遍照金剛は弘法大師空海に帰依するという意味があるのです。遍照金剛は空海の灌頂名であり、同時に大日如来の別名としても知られています。
真言宗においては、空海が山で修行していた時代、様々なことを経験した場所について四国の88ヵ所として、霊場という形で今でも残されています。この88ヵ所の霊場をめぐるお遍路では、名号を唱えるのが一般的です。霊場を巡る方のことをお遍路さんと呼び、「南無大師遍照金剛」と書かれた白衣を身にまといます。
そして、お遍路さん導師としてあいさつする時には、南無大師遍照金剛という言葉で挨拶するのです。歩いて霊場を回りつつ、南無大師遍照金剛を唱えるのには理由があり、自分の背後に大日如来が付いていること、大師と二人でお遍路へ行く、という2つの意味が込められています。
南無妙法蓮華経とは、法華系の仏教において使用されている言葉となります。南無はnamoの漢語への音写語であり、わたくしは帰依しますを意味しています。妙法蓮華経はサンスクリット語のサッダルマ・プンダリーカ・スートラを、鳩摩羅什が翻訳した版の法華経の正式な題名となります。
南無妙法蓮華経とは、法華経の教えに帰依をするという意味がある言葉となるのです。南無妙法蓮華経を要約すると、日蓮大聖人が覚知された万人の苦悩を根本から解決する法のことです。宇宙と生命を貫く根源の法であると言え、釈尊は人の苦悩を自身の苦悩として考え、その解決法を探求していました。
その結果から、宇宙と生命を貫く永遠かつ不変である根源の法を、自身の生命の内に覚知しして仏と呼ばれたのです。南無妙法蓮華経を明かしたのは日蓮大聖人であり、苦悩を根本から解決して幸福を開く仏が覚知したこの根源の法こそが、南無妙法蓮華経であると明かしたのです。
南無妙法蓮華経は、成仏の根本法となり、すべての人に関連する普遍の法でもあります。南無妙法蓮華経と題目を唱えることによって、南無妙法蓮華経が人々の生命に体現して、本来私たちに内在している仏界という最高の生命が湧き現れてくると信じられています。
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